アレコレ楽書きessay

「イタリア楽描きessay」のサブブログ

罪悪感の扱い方

なによりも心を強力に押しつぶすもの

それは罪悪感。


自分自身で作り出しているから

なかなかキレイにさっぱりと

手放すことが難しい。


抱えている不要な罪悪感に

気付いたとしても

他の誰かや環境のせいで

植えつけられたと思い込み

責任をすり替えてしまったり。


基本的に真面目で優等生気質

さらに完璧主義の私は

いとも簡単に罪悪感の思うがまま

手玉に取られてきた。


身を持って体得した扱い方は

アドラー心理学の真髄に似ている。

課題を分離するのだ。

自分の言動で相手がどう感じるかまで

責任を負う必要はない。


つい最近、こんな出来事があった。


多忙の人から頼まれた仕事で

スナップボタンの位置を間違えた。

説明不足、確認ミス。

余裕がないときにありがちなこと。


それに依頼した人が気付いたとき

私はその場にいなかった。

だから手の空いていた人達が

手直しをしてくれた。


ところが手直し作業をやった人が

またさらに間違えた位置にボタンをつけた。

全てではないけれど

仕上げ作業の段階で戻ってくる。


全て私が間違えたと思っている人もいる。

集中して仕事しなよと警告をする人もいる。


この出来事に罪悪感を感じるべきか?

今の私の答えは、否。


私はまっすぐに責任を負う立場の人に

仕事を遅延させたことを詫びた。

手を貸してくれた人には感謝。

誰が手直しを間違えたかに興味はない。

後は淡々と作業をこなした。


全て私の仕業だと思って

わざわざ忠告してきた人には

はっきりと告げた。


手直しをしてくれた人が間違えたものや

まだ直される前に

次の工程へ行ってしまったものもある、と。


その忠告者は私に

別の間違えた位置を指示して

混乱させた人でもある。


たいてい他人の行為が気になる人は

自分自身と折合いがついていないことが多い。


その人にどう思われるかは

私の問題ではないし

何かを言われたからといって

黙っている必要もない。


私は集中して確認しつつ

全て統一した場所へボタンをつけた。

その位置が違っていた。


私がすべきだったことは

実際につけた後の再確認。

依頼した人がすべきだったことは

あるべき位置につけられているかの再確認。

仕事を引き渡す、受け取る場合に

やるべきことをお互いにやらなかった。


そういうエネルギーが渦まいていた。

多忙という名の荷重があった。


もちろん経験値として活用はする。

けれど罪ではないし

総体的にみれば悪いことではない。


罪悪感に苛まれて

泣いたり苦しんだりもがいていた

昔の私にも改めて伝えよう。


それはもういらない感情だよ、と。



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Foto Yaegashi Luna