アレコレ楽書きessay

「イタリア楽描きessay」のサブブログ

子供がのびのび育つために褒める必要はない

ふと思った。

ほんとうにのびのびと
子供がやりたいことを
する環境の基本は
肯定されたり褒められる
ことではなくて単純に

「否定されない」

だけでいいのかも。

「なんでも褒めて育てよう」
という感じのオススメに
違和感を感じていた。

やりたいことを自由にやれる。

たったそれだけで
きっと子供は
深い深い自己信頼感を
育むことができる。

というのも
「ほめられる」ことを
喜びの基盤にすると
承認欲求もくっついてくる。

確かに称賛は
成長の糧になりやすい。
けれども諸刃の刃。

ほめられれば伸びて
けなされれば落ち込む。

そんな構図を構築しやすい。

期待に応えているうちに
ほんとうにやりたかったことが
わからなくなるニンゲンを
大量生産してしまう。

幼いこどもの好奇心は
おとなの尺度を遥かに超えて
実に華やかで豊かな
色彩をはなっている。

それなのに。

〇〇は✕✕だ。

という「教育」という名の
型と枠にあてはめて
色鮮やかな模様を
単純なパターンに変換する。

または色彩を欠いた
モノトーンにしてしまう。

「褒めて個性を伸ばす」
という教育はせいぜい
12色くらいのわかりやすい
色パレットに分類してしまう行為に
なってしまう可能性を孕む。

その境界線にある
美しい中間色や混合色を
無理に「どれか」にあてはめる。
とくに度量や器の小さい
指導者や教育者がやりがち。

確かに社会生活に
必要なコミュニケーション能力や
生まれ育つ場所の常識を
最低限身につける必要はある。

それは矯正しなくても
ある程度勝手に
身につくような気がする。

まわりにいる人間が
使っている言語や行動を
子供達は生存本能として
観察して学ぶから。

だから「片付けなさい」
と言う前に片付ける。
やってあげる、のではなくやる。
シンプルに。

「勉強しなさい」と怒る前に
学んでいる姿を見せる。
見せつけるために
勉強するのではなく
学びの姿勢の手本を提示する。

自分ができないならば
それを観察できる場に
連れて行ってあげる。
それだけでいい。

自分ができないことを
「やりなさい」と命令する
大人が多すぎる。

または自分ができることを
ムリヤリやらせようとする。

たとえ血を分けた子供でも
別の人格・性格・性質を
持っていることを
軽視しすぎている。

やがて子供達は
似ている仲間を見つけ出す。

もし我が子が「否定される」
環境にいるとしたら
そこから移動させる
手伝いをするだけで
ギュッとしめつけられた
心身が楽になる。

これは自分自身にも
あてはめることができる。

ほめられる場所を探すのではなく
否定されない場にまずは避難する。

そしていい意味で
放置される場所で自分を
のびのびと開放する。

そんな事を今朝
起きがけに思いました。

針仕事へ行ってきます。
みなさん素敵な1日を。


Foto Yaegashi Luna