アレコレ楽書きessay

「イタリア楽描きessay」のサブブログ

「誰も助けてくれない、わたしはひとりぼっち」

というコメントを3回目にした。
YouTubeの動画コメント欄に
そういう書き込みがあった。

もし本当に誰も助けてくれないなら
YouTubeだって見られないし
コメント欄に書き込みすらできない。

どこかで誰かがインターネットの
システムをサポートして
コメント欄に書き込みを
できるようにしてくれている。

スマホかパソコンを考えて作って
売ってくれる人がいるから
それを使って自己表現したり
楽しんだりできる。

そもそも生きているなら
食べるし寝るし排泄する。
最低限でも何かをやる。

食事を作ってくれる人がいなくても
その食べ物を作る人がいて
店に並べる人がいて
レジで会計をしてくれる人がいる。

家を作る材料を作る人がいて
家を建てる人がいて
ガス・水道・電気を使えるように
働いている人がたくさんいる。

着ている服を作った人がいる。
持っている物を作った人がいる。

道路を作った人がいて
公共機関を動かしている人がいる。

書き込みできるのだから
日本語を教えてくれた誰かがいて
「誰も助けてくれない」という表現を
覚える機会があったはず。

生まれてきて
生きているなら
赤ちゃんのときに
誰かが世話をしてくれたはず。

ひとりぼっちなんてありえない。

声を出して話をする相手が
いないとしたら
「おはようございます」と
コンビニの店員さんに
自分から言えばいいと思う。

なんらかの理由で声が出ないなら
会釈だってかまわない。

声を出して挨拶すればほぼ100%
「おはようございます」が
返ってくるはず。

「ありがとうございます」には
「ありがとうございます」が
返ってくるはず。

できない、というブレーキを
かけているのは自分自身。
自分で選択をしている。

私はひとり暮らしをしていて
ものすごくたくさん
ひとりでしゃべっている。

声を出すおしゃべりも
出さないおしゃべりも
たくさん楽しんでいる。

誰かとの対話は実はモノローグ
という言葉がある。
モノローグとは「ひとりごと」。

他の誰かの身体を通じて
聞こえる言葉を使って
私達はみんなずっとそれぞれ
「ひとりごと」を話している。

会話や対話は永遠に続くモノローグ。

万物の源はもともとひとつ。
だから自分自身が何者なのか
さっぱりわからなくて
たくさんの分身を作って
「私は誰?」を延々と経験している。

「わたしはひとりぼっち」という感覚は
ある意味根源的な心理なのだろう。

せっかくバラバラに分かれて
たくさん経験するために私達は
別々の身体を使っているのだから
どうせなら楽しい経験で
私は誰?を追求したい。

苦手な人と話す時にも
モノローグだと思って
すこし離れて会話を観察すると
おもしろい視点がわかる。

これはすでに手放した観点かな?

まだ執着として自分の中に
あるから聞こえる言葉なのかな?

どんな態度を示すかという
リアクションのテストかな?

と、少しだけ客観的に
自分と誰かのやりとりを眺めると
必ずいつも学びがある。

「わたしはひとりぼっち」と
書き込みをしてくれた
どこかの誰かのおかげで
私はまた学びました。
どうもありがとう。

素敵な日曜日をお過ごしください。


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