アレコレ楽書きessay

「イタリア楽描きessay」のサブブログ

チェントロのある場所で暮らす

イタリア語で中心・真ん中の事を

チェントロ(centro)という。


この言葉は「街の中心」という意味でも

もちろん使われるけれど

日本で使われる「中心街」とは異なる。


イタリアの街の中心は

歴史的に中心地だった広場や

時計台周辺などを示す。

商業施設がひしめく場所ではない。

たいてい広場と教会がある。


イタリアに来たばかりの頃は

「今晩チェントロへ行こうよ」という

セリフの意味が感覚的にわからなかった。


シンボルになる噴水や

銅像があることが多いので

待ち合わせにもよく使われる。


その後、目的のお店へ行ったり

おしゃべりをしながら

ぶらぶらと散歩をしたり。


東京で暮らしていた頃に

「今週末、吉祥寺へ行こうか?」と

町の名前を使う感覚に近いことが

しばらく経ってわかった。


ローマやフィレンツェなど

街の規模が大きくなると

また別の使われ方をすると思う。


私の住処はペルージャよりもっと小さい田舎町。

チェントロストーリコ(歴史的中心地)

チェントロコンメルチャーレ(商業的中心地)

この2つが別の場所になっている。


もちろん規模が小さいので

商業的施設と言っても

スーパー、美容室、コインランドリー

建築設計事務所、かかりつけ医、保険代理店

これしかない。精肉店は移転したばかり。


この近辺にはもっと小さな街もある。

それでも必ずチェントロがある。


中心地がある街で暮らすと

人の心にも軸が育ちやすいのではないか?

それがイタリアに来て間もなく

私がたてた仮説。


当然大きな街へ行くと「チェントロ」の

規模が広がるから視野も広がるけれど

同時に軸をどこに定めればいいのか

わからない人も増える。


日本の町の形態を観察すると

ひとつの町と隣町の境界線が

パッとみてわからない。

中心地もわかりにくい。

だから軸のない人が増えて

周りになんとなく流される人が

増えるのかもしれない。


人間は生まれながらの気質は違っても

周りの環境に左右されやすい。

それは無意識領域に刷り込まれ

やがて本来の姿とは遠い人格を

創り上げてしまうほど影響力がある。


長い年月をかけて出来上がった

セルフイメージを変えなければいけない

そんな時に人間はうろたえる。


たとえ魂の叫びとは程遠い姿であっても

数十年かけて作り上げた生活や生き方を

ゼロに戻して更地からやり直すのは

怖いと感じてしまう。


だから今、揺れ動いている。

たくさんの人々が。


家から出られない。

ならばそこが人生の本来の

軸になっているはず。


楽しく暮らすためのはずの仕事に振り回されて

家族やパートナーとの大事な時間を

ないがしろにして来た人々への贈り物。


コロナ結婚と離婚が増えているらしい。

極限の状態になって

やっとこれまで放置していた

人生の課題に向き合ったからだと思う。


これまで「仕事が忙しいから」という

建前を掲げて横に置いておいた課題と

真正面から対峙したから。


どうしていいかわからない時に

見つめ直す場所は外ではない。

自分自身のチェントロだ。



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Foto Yaegashi Luna