アレコレ楽書きessay

「イタリア楽描きessay」のサブブログ

覗き見て編集するという暴力

ドキュメンタリー映画監督の故佐藤真さんの

言葉を記載したネット記事を読んだ。


「カメラがそこにあるということは暴力である」


彼の作品を見たことはないけれど

この視点を持って撮影していた人が

傑作を生み出していたことは推測できる。


静止画であれ動画であれ

カメラに収まったものを

誰がどういう風に見るのか。


ここにはすでに幾重ものフィルターが

かかっていることを自覚していないと

人は簡単にまやかしに翻弄される。


まずはカメラを扱った人間。

どんな場面をどのように切り取ったのか

そこに撮影者のフィルターがかかる。


編集加工したものならばさらに

その人々の目的や設定に合うものに

切り貼りされたものが出来上がる。


そして見る人間。

それまでに体験したこと知ってること

好みや信念などがすでに個人専用の

色眼鏡を作りあげている。


そんな風にして

感動・共感・同情・嫌悪感・連帯感

安心感・依存心・好奇心・劣等感・優越感

ありとあらゆる感覚や感情に

するりと入り込む画像や映像が創られる。


だからカメラを向けて

何かを撮影した時点ですでに

誰かや何かに介入している

という自覚は持っていた方がいい。


撮影側がかわいいなと思った表情でも

それを撮影された側は不快かもしれない。


テレビやマスコミで取り上げられる

カメラを通した映像や画像の

大半は暴力を縦横無尽に施行している。

だから私はもう長いこと距離を置いている。


全く同じ写真に明るい音楽をのせるか

暗い曲をあてるかで

それを見聞きする人への印象は

簡単に変えることができるのだ。


そういう技術を駆使して演出効果や

心理効果を作り出しているのが

プロモーションでありデザイン業の真髄。


この言葉を心に留めておこうと思った理由は

ホロスコープと心理学の分析と解析。

そこに極力フィルターをかけないように

尽力してみようと思ったから。


ケーススタディのデータを快く提供してくれた

友達へ解析結果を伝えるときに

なるべくニュートラルな立場を意識する。


すでに人間である私の個人的興味の

強力なフィルターがかかっているのだから

それ以上暴力的にならないようにしたい。


その意識を常に戒めとして抱きながら

ありがたく学ばせてもらおう。

そう思わせてくれた佐藤監督の言葉だった。



Foto Yaegashi Luna