アレコレ楽書きessay

「イタリア楽描きessay」のサブブログ

感じていることを捻じ曲げないで伝えたときに人が離れて行くのはあたりまえのこと

大人と呼ばれる年齢になると
なあなあと惰性で付き合っている
人間の数が増えていく。

自分で何かを決めて動いたとき
いったん周りにいる人間が
離れることがある。
すーっと消えていく。

波長が合わなくなったら
距離を置くのはお互いのため。
戻ってこない人を追いかけたり
自分のせいだと責めることもない。

相手の感情も行動も
コントロールできないのだから
そこに執着することはない。

このあたりの捉え方に関して
イタリア人はかなり上手い。
去っていく人にこだわらない。
もちろん個人差はあるけれど。

誰かが集団を離れるときも
しんみりしすぎない。
お祝い事への祝辞もさっくり。
堅苦しさはない。
台本なんて作らない。

いつの頃だったか
覚えていないけれど
友達だと思っていた人が
ぷっつりと連絡を絶った。

あれ?どうしたのかな?
と、少し困惑したけれど
彼女とのやりとりを思い返せば
かなり迷惑をかけたこともあるし
厄介な人だと思っていたのかも。

それはそれで仕方がない。
彼女には彼女の人生がある。

私との連絡を断つことで
彼女の日々が軽やかになるなら
それがお互いのためになる。

もしまたどこかで
ばったり再会しても
こだわりもわだかまりもない。

だからたぶん普通に
久しぶり!元気?
と声をかけると思う。

相手が不快の波長を出していたら
早々に切り上げるかもしれないけど。
嫌がる相手に嫌がらせを
続ける趣味嗜好はない。

ブログやツイッターなどの
フォローやフォロワーも同じ。
発信の毛色が合わなくなったり
更新頻度が不快だったり
いろんな理由で増減する。

誰にだって変化は訪れる。
その波が早い人もいれば
ゆっくり穏やかなひともいる。
誰かの変化リズムと自分を
無理矢理合わせることはない。

私自身もういいやと
判断したらすぐにフォローを外す。
たとえ知人・友人でも。
少し前まで頻繁に見ていた発信でも。

形はどうあれ縁が続く人とは続くし
途切れる人は途切れる。
出会いにも別れにも執着しない。

いらない情報が雑念になるし
アクセスしたいものの周辺に
壁を作って障害になってしまう。

インターネット上の情報も
持ち物の整理整頓と同じ。
多ければ多いほど良いわけではない。
程よく使いやすい状態が心地よい。

たくさん食べたら太って
運動したら痩せるみたいな
現象と変わらない。

こんなことを言ったら
嫌われるかな?
変に思われるかな?

と、ビクビクしながら
言いたいことも言わないなら
発信するたびにストレスが
倍増しそうな気がする。

もちろん言葉選びは大切。

公の場に自分の言葉を置くなら
あからさまに誰かをなじると
その反動はやがて自分に戻ってくる。

それでも、どれだけ気をつけても
誰かが傷ついてしまうこともある。

言葉を選んだつもりでも
読む側の受け取り方は
コントロールできないから
どうしようもない。

自分がむしゃくしゃしている時に
やたらと幸せそうな人の笑顔が
イライラする感覚を引き起こしたり。
声が嫌いという人もいる。

そんなことを考えすぎたら
がんじがらめになって動けない。

実際は受け取り側の感性や
信念の違いが快・不快を生む。
直接だれかを傷をつけることは
誰にもできない。

「傷つけられた」と
誰かのせいにすることで
自分自身を守ることもある。

冬らしい朝です。
きりりと冷たい空気が気持ちいい。

素敵な1日をお過ごしください。


Foto Yaegashi Luna