アレコレ楽書きessay

「イタリア楽描きessay」のサブブログ

「誰」がやったか言ったかわからない【主語がなくても成り立つ日本語による共感】

イタリア語・英語・日本語で
インスタグラムに詩を書いている。

大きな違いに気がついた。
日本語は主語がなくても
文章が成立する。

「誰が」を明記しなくても
文法的に変じゃない詩や歌詞が
自然に成り立つ。

むしろ「私は…私は…私は…」を
連発すると幼い感じの表現になる。

全く同じ単語の繰り返しを
意識的に避ける書き方は
他の言語でも共通の
「美しい文章」のコツではある。

けれども根本的な違いがある。

英語は「彼・彼女」の場合に
動詞が変化するし
「誰」の行動や感覚なのか
明記しないとおかしい。

イタリア語だとさらに
動詞が細かく変化する。

私が
あなたが
彼・彼女が
私達が
あなた達が
彼ら・彼女らが

主語によって動詞が変わる。
形容詞も変化する。

「なんとなくみんな一緒」感が
植え付けられないにくい
言語体系なのだ。

日本語を母国語として育つと
「共感はあたりまえ」という
感覚が生まれやすい。
そういう「言語」を使っているから。

「心が痛い」「気がついた」
「あたたまる」「切ない」

文章に「誰が」をはっきりと
書かなくてもいいから
「あなたもそうだよね」という
共感を促しやすい。

誰が感じたのか
誰が気がついたのか
誰がわかったのか

明記しないと文章が成り立たない
言語を聞きながら使って育ち
そういうはっきりした表現が
あたりまえの暮らしをする。

だからイタリアでは
自然と「自分の考え」を持った
人間が育まれるのだろう。

ことばが人の性格や暮らしを形づくる。

すぐに目に見えなくても
繰り返し繰り返し
使っていることばが
自己暗示や魔法のように
「人」を作り上げていく。

そこに気づいたら
少し楽になる日本人が
増えるかもしれない。

自分の感覚ではない表現を
そのまま鵜呑みにすることはない。

例え家族・友達・恋人でも
別の身体を使っている人間の感覚を
無理矢理に刷り込まなくていい。

針仕事へいってきます。
素敵な1日をお過ごしください。


Foto Yaegashi Luna