アレコレ楽書きessay

「イタリア楽描きessay」のサブブログ

過去の自分の遺影

同僚の肖像画を描いた。
その話題の流れで
職場の経営者が言った。
「ワタシが死んだら描いてね」

もちろん雑談のひとつ。
「死んでからじゃ遅いよ」
などと周りの誰かが言い
軽い笑いが沸き起こる。

その直後に描いたのは
自分自身の正面図。
たぶん初めて長時間
顔を眺め続けた。

ふと思った。

「これは昔の自分の遺影だ」

誰かにどう思われるか
それを気にしすぎる。

思い通りにならない部分に
こだわりが強く出ると
その行為自体をやめてしまう。

好きなことに取り組むと
その界隈ですでに活躍してる人と
勝手に比較して落ち込む。

あれこれ迷いすぎて
結局やらない。

誰かになにかを言われたら
そのセリフをずっと反芻する。

ああすればよかった
こうすべきだったと
過ぎ去ったことを延々と考える。

そんな昔の自分のお葬式。

正面の顔写真をアイコンに
使ったことは一度もない。
広い現実世界とまっすぐ向き合う
姿勢をこれまで持っていなかった。

怖かったのではなくて
単にタイミングなのだと思う。

自分の顔だけでなく
資料写真の細かい陰影や形を
じっくり観察していると
ワンネスの世界を
現実世界で眼と手で感じる。

ひとつに溶ける。
境界線が消える。
対象物と向き合っているのに
気がつくとひとつになっている。

人物も景色も物体も
色彩も光も単なるエネルギー。
その最小単位を観察して
手で再び構築していく。

対象物に似て見えるけれど
それは2次元に落とし込んだもの。
いったん溶かして溶け込んで
自分の身体を通して表現する。

弔いは忌むことじゃない。

おおげさに聞こえるかもしれないけど
私はまるごと世界を愛している。
あちこちで起こる
様々な出来事も含めて。

おどろおどろしい絵は
好きじゃないけど
なんとなく描く人の感覚が
わかったような気がした。

弔いなんだな、と。
葬り去るために描く。
だけど離れられないから
なんどもなんども描く。

集中して絵を描き始めて数週間。
すでに描いたものの拙さが
ありありと視える。

昔の完璧主義の私なら
恥ずかしくてたまらなかった。
至らない自分が許せなかった。

今は変わったと実感する。

過去の自分が
「よし、ここで終わり」
と、締めくくった世界を
そのまま放置できるようになった。

現実世界の整理整頓のように
いらない作品は削除したり
アーカイブに移動させる。

だけどその行為の原動力が
以前とはまったく違っている。

「恥ずかしくて見られたくない」

からではない。
いらない。ただそれだけ。

今日は雨。
針仕事へ行ってきます。
素敵な1日をお過ごしください。


Schizzo e Foto Yaegashi Luna